設計者・井口健 北海道百年記念塔を語る ⑧
竣工と管理
塔は老朽化などしていない
──昭和45年(1970年)9月2日、北海道百記念塔は落成式を迎えました。当時のお気持ちは?
設計通りできなかったから、喜び半分、虚しさ半分──。
実は8月いっぱいで久米建築事務所を退職したんです。 落成期の1カ月前に退職して自分の事務所を立ち上げました。塔は当初設計と異なったかたちになったんですが、著作権者である私の了解もなく久米建築事務所は勝手に契約してしまいました。
すぐにも事務所をやめようかと思いましたが、慰留もあり、とりあえず塔の完成まで辞職は待っていたんです。落成式は井口健として出席しています。
北海道百年記念塔落成式
──町村知事とはお話したんですか?
記念塔が完成したおり、知事部局にお願いして、ワイフと一緒に道庁を訪問して、町村知事さんにお礼の挨拶をさせて頂きました。
町村知事で思い出すのは道庁本庁の工事ですね。外装材の色をきめるのに畳2枚ほどのサンプルを8枚程作り、組み上がった鉄骨の高所に取り付け、知事に見てもらったんです。道の建設事務所の所長さんが知事を案内して「知事の意見はどうですか? どの色にしますか?」と聞いたんですが、知事は黙って見ていて、自分の意見を言わなかったですね。
要するに〝素人は口をださない。プロに任せる〟ということです。なかなかできることではありません。私があいさつに行ったときも、私の話をよく聞いてくれましたが、特別な話はされませんでしたね。
記念塔の建設現場で町村知事を案内する
──完成後、北海道百年記念塔に関わることは無くなったと?
いえ、10年後と20年後に補修工事が行われたましたが、これはうちの事務所でやっています。
最初の保守工事では、塔体鉄骨の錆止めと塔内部の結露防止の土間コンクリートの打設、電気工事と塔内保守管理用の通路の設置などを行いました。平成11年(1999年)の2度目の保守工事のときは、いくつか大きめの錆片とルーバーに取り付けた金網のフレームが階段室に滞積したことから大規模改修となりました。
錆片はパネルとパネルの間に溜まった初期錆が剥げ落ちたもので、塔内部の湿気を抜く工事と、排水が悪くなっていたパネル1カ所を取り替えました。塔内の全般的な錆止め塗装と外装パネルの取り付け溶接の補強、それとパネルジョイントのコーキングを行いました。
平成10年の補修工事①
──先生は完成してからもずっと塔に関われてきたのですね。ところで平成30年(2018年)に報道陣に内部公開が行われたとき落下した金属片発見されて話題になりましたが?
補修工事はうちの事務所もかかわってきまいたが、地震の時に落下したというステンレスの物体は、不可解です。現場で物体をつぶさに観察しましたが、溶接で止めたり、ボルトで止められた形跡もありません。しかも、片面をコルテン鋼の色にあわせて塗装をしている??? 元からあったものなのか、後から置いたものなのか判定がつかない──そういう代物です。
平成10年(1998年)の保守工事の時、完工後の報告会で「錆はこういう状態でした。錆による厚みの欠損はまったくありませんでした」と報告したのですが、発表を聞いた道庁の職員も「(錆による厚板の欠損がないことは)不思議ですね」と驚いていました。それがコルテン鋼の特性で酸化膜が熟成し設計通りに機能を発揮したんですよ。
昭和55(1980)に北大の工学部長だった柴田拓二先生を長とする調査委員会による調査が行われ、保守管理の方針が示されました。この指針に基づいて管理が行われて来ました。今も塔は老朽化などしていない。老朽化どころかコルテン鋼の理想的な姿です。柴田先生の指針に基づいて今後も保守管理を行ってほしいのです。
柴田拓二氏②
小樽出身、北大名誉教授
建築構造学の権威として
平成21年日本建築学会大
賞など数々の賞を受賞した
──北海道百年記念塔はまだまだ保つんですね。
大事にすれば100年以上は持ちます。 マンションでも人間でもなんでもそうですが、肝心なのは管理の仕方です。そのためのエレベーターがあるのですから……。
北大の柴田先生は、この塔が長期にわたり守れるように維持管理指針をつくりました。後年、柴田先生は 百年記念塔の二次曲線を指して「X軸は僕でY軸は井口さんだ」。そして「百年記念塔が守れないようであれば、北海道は駄目だ。北海道の歴史の証人として絶対に残すべきだ」と声を大きくして言っていました。柴田先生の記念塔への遺言みたいなものです。
北海道百年記念塔竣工写真
──しかし、世間にはずいぶんと誤解もあるようです。
コルテン鋼の特性が認知されていないものだから、現場に行くと錆だらけだと思ってしまうわけです。完成後10年程たったとき〝行ってみたら廃墟だった〟という文化人類学の学者がいました。もう亡くなっていますけど。
そういう誤解──というよりも誤認が今でも非常に多い。それを助長しているのがマスコミ報道。報道の情報が正確ではないので誤解・誤認が消えません。コルテン鋼の特性が理解されるのは難しいですね……!
そして、面と向かって言われたことはありませんが、前に話した 「アイヌ民族同化政策の象徴」という偏見ですね。塔が設計どおりにできていれば、そんな偏見の生じなかったと思うと残念です。
悔しいのは、今これを壊してしまえば、この塔がアイヌを苦しめた象徴ということに固まってしまう。それが一番困るんですよ。だから僕はせめてこのまま自然と共生させ 、残しなさいと言っているんです。
北海道百年記念塔竣工写真
──残念ながら道は北海道百年記念塔の解体撤去を決めてしまいました。
平成28年(2016年)に記念塔の存廃を議論する 「 北海道の歴史文化施設活性化に関する懇談会」がはじまったとき、僕は「会議で僕に聞きたいことがあれば喜んで協力しますから、ぜひ連絡ください」といったんですが、何もないんです。
道庁とはなんどもやり取りをしてしていますが、いつも事務的なやりとりだけで、技術的な話し合いは全くありません。老朽化について説明せよと言われたことない。記念塔に対しては僕も道に対して要望書を提出しましたが……
北海道百年記念塔竣工写真
──先生の提出された要望書はどんな内容ですか?
まず百年記念塔の現状に対する私の意見として
小生が去る4月11日に現場を視察に参りました折りに同行して戴いた伊藤組様より受領いたしました「平成29年度北海道百年記念塔維持管理計画策定調査報告書」の23頁、「イ・現状維持管理計画」の案が宜しいかと思います。但し、立ち入り禁止のフェンスについては必要と思われず、現在の立入禁止処置のものも美的にデザインされたものにする程度で宜しいと考えます。
とした上で、将来像として、第一に塔の名前を「母なる大地の塔」と変える。そして、願わくば百年記念塔を設計当時の姿に近づける、と要望しています。
また解体論についてもこう述べています。
百年記念塔……解体論について
多額の維持管理費とアイヌ民族の問題がセットに扱われ、新聞・テレビ・インターネットにより解体を印象づける報道が多く見られました。北海道の歴史を背負ったモニュメントが多額の費用を要して意図的に解体されることには精神的にも経済的にも好ましいとは思われません。特に子供の教育上大きなダメージを与えるでしょう。
記念塔と自然、森林の中に生きる大樹と考え、北の自然の季節、四季と共に共存し、その姿に人間は歴史の流れを感じることができるのではないでしょうか。朽ちて自然に逞しく生きる姿を静かに見守ろうとする配慮が自然及び先人の霊に心を寄せることになるのではないでしょうか。
「素肌の美 老いいく塔のたくましさ」
今の塔はいうなればシューベルトの「未完成交響曲」なんですね。設計通りの姿であれば、まったく印象は違っていました。だからこそベートーベンの第9シンフォニー『歓喜の歌』になりたいと。
塔の向きも今のように正面ではなくて、斜めに見えるように設計したんです。 開拓記念館と記念塔は南北軸で結ばれているんですよ。開拓記念館(現北海道博物館)に手を合わせて「お世話になります」と言う気持ちで設計したんです。 札幌の街のほうに向けるように言われ、60度振りました。
塔の脇の 慰霊施設のことは前に言いましたね。設計当時は照明灯を設ける考えでしたが、これを復活させて慰霊のための鐘を設けるといい。
今塔の周辺は平らで、平面の上にぽつんと塔が立つかたちですが、もともとは周囲を六角形に掘りこんで、小樽運河のように石造りの回廊をめぐる予定でした。フランスのセーヌ川もそうですが、ああいう雰囲気を出したかった。それもできませんでした。
これらを復活させ、周辺の森林、開拓記念館を含めて「ルーツの里」として「創造と慰霊」の空間にすることで過去だけでなく未来に向かっても創造的な空間、パイオニア精神を喚起するような雰囲気を出したいとして要望書に書きました。
──設計者であるばかりでなく、その後もずっと塔に関わってこられた先生をないがしろにして解体の決定が決められたんですね。
初めから壊すんだ、解体するんだと決めているんだね。アンケートを取ったとか、話をしたとか言っていますけど、言うなればアリバイ工作? その原点を知りたいものですがね……
──ありがとうございます。ところで先生のご先祖は徳島の出身ということでしたが、どういうことで北海道に渡ったか聞いていますか?
徳島の先祖の地に一度行ったことがあります。向こうからも観光旅行を兼ねて北海道に来てくれて一緒に食事をしたことがありますね。そうすると、実はうちの方が本家で徳島が別家と聞きました。
井口の家は、昔の戸籍では平民となっており、農家をやっていたと思うんですが、お墓は台座に座像を乗せた形でした。お墓参りもしました。
志方之義
北海道の初代は瀬棚へ明治28年(1895年)に入っています。瀬棚村字イヌマエル、今は今金町「神丘」となっているところです。
志方之善をご存じですか? 新島襄が創設した同志社の学んだキリスト者で、日本人最初の女医である荻野吟子の夫です。荻野吟子のほうが年上ですが、最初の結婚で性病を移されて家を出され、教会で志方と知り合ったということです。荻野吟子は一時瀬棚で開業しています。
志方之義はキリスト教による理想都をつくるために瀬棚に入ったのです。しかし、うまくいかなかったようです。
戦前までは20~30町の土地を持っていましたが、戦後の農地改革で5町を残して失いました。その土地は有志が造成し、 「 今金町24時間キャンプライブ」が開かれる遊園地 「 愛指令(140)ランド」になっており、ボランティアが管理していますね。(東経140度)
父は戦後今金で家具と表具の工作所をやっていましたから、それが原点で建築の道に進んだということです。
──志方之義と荻野吟子の物語は北海道開拓の代表的物語です。先生のご先祖はイヌマエルの開拓者だったんですね。その子孫である先生が設計された北海道百年記念塔、どこからどう見ても北海道の象徴ですね。北海道百年記念塔は、私たち北海道の未来のために守らなければならない──先生のお話を聞いて改めてそう思いまいた。
長い間、ありがとうございました。
【引用出典】
①日本鋼構造協会機関紙『JSSC』2007春号「北海道百年記念塔 北のシンボル母なる大地の塔」井口健
②日本地震学会 https://www.jaee.gr.jp/members/shibata.pdf
北海道百年記念塔を守るための活動資金にご協力をお願いします。
北洋銀行厚別中央支店(店番486)普通4648744 『北海道百年記念塔を守る会』
PUBLISH
北海道百年記念塔を守る会 事務局
〒004-0055 札幌市厚別区厚別中央5条4丁目12-1若草物語 102号室
電話:050ー8885ー7488