5 設計競技 審査
規模・性格・内容において全日本においても画期的
全国的な関心を集めた北海道百年記念塔の設計競技には全国から299点の作品が集まり、昭和42年12月9日の審査によって1点の最優秀作、3点の優秀作、6点の入選作が選ばれた。佐藤武夫審査委員長は『週刊建築ニュース 316号』(1968/1/15)のインタビューに答えて次の談話を寄せている。
審査を 終えて
北海道百年記念塔設計競技審査委員長 佐藤 武夫
このコンペの企画については昨年の6月頃から始まり、そのとき審査委員を引き受けをという話がありましたが、はからずも私はその審査委員長を命ぜられました。これは大役なので、その任務が果たせるかどうか悩んだのですが、さいわい審査委員各位の協力と優秀作品がたくさん集まったことによって審査を終了し、満足な結果をご報告できたのは大変喜んでいます。
簡単に経過報告と若干の所感を記しておきたいと思っています。応募は昨年6月10日から始まって、7月10日まで1327名の応募登録がありました。そのうち実際に応募したのは299点で300点にも達すると言う好成績でした。 これはこのコンペがいかに建築界に大きな反響を呼んだかということが明らかです。
その299点について審査委員会を3回、それ以前に2回の審査委員会では、主として募集要項や質疑応答なども検討をしました。第4回以降の審査会で第4回、第5回というふうに会を重ねて審査を進めていきました。
当初は数が多いので、いわゆる粗絞りをして優秀な作品を残していきました。その時には審査員が1票でもよしとする人があれば、その作品は残していくという投票方法で絞って行き、その結果、10数点が残りました。
最後の第5回目の東京での審査会では、最後まで約10時間かかりましたが、論議を重ねた結果、全員一致で発表した最優秀作品1点と優秀作品3点、それに準優秀作品6点を最終の審査結果として選定したわけです。
ところで前後しますが、今回の設計競技は、北海道にとっても、はじめての企てであったと思いますが、北海道ばかりではなく、全日本においても、おそらく規模においてあるいはその性格・内容においても、まさに画期的なものだったといって過言ではないと思います。
特に日本の現在の建築界にとって、これは一つのハイライト・イベントというか輝かしい出来事でした。こういう純粋のモニュメントのコンペティションは、戦時中に忠霊塔を各地に建てたということで、大規模のコンペがありましたが、アイディアを募集しただけで実現しませんでした。
ところが、今回は一案を募るばかりではなくその最優秀に当選した人にその案を基として実際の設計までも委託するという実施実施権のかかったものでした。これは建築の公開競技設計としては非常に進歩的な例です。こういうことを企てた北海道ならび期成会の意図に対し、建築界を挙げて非常な感謝をしていることと思います。[1]
設計競技審査会の発表会で経過を述べる佐藤審査委員長
審査結果
優秀作品のなかでは、日本を代表する建築家黒川紀章氏の作品がこれも当時国民的彫刻家であり、北海道出身の本郷新氏とコラボレーションした作品が目を引く。黒川氏は当時33歳。記念塔コンペへの応募は一世を風靡した昭和47年の「中銀カプセルタワービル」の5年前である。準優秀作にも長島正充氏、渡辺洋治氏など当時の日本を代表する建築家の名前が見える。
最優秀作品
優秀作品
①
②
③
準優秀作品
【引用参照出典】
[1]建築ジャーナル『週刊建築ニュース 316号』(1968/1/15)
[2]『設計競技審査結果報告資料』1967/12/11・北海道百年記念塔建設期成会
①②③『北海タイムス』1967/12/11
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