1 建設地の選定
後方の天然林は過去を偲び
前方の平野は将来に思いを馳せる
昭和37(1962)年1月、5年後に迫った北海道百年の準備のため町村金五知事を長とした準備委員会が道の内部に設けられた。内部から事業案、事業企画を募ったところ70もの案が寄せられたが、記念塔もしくは記念碑の建設はもっとも多い事業案だった。
昭和40(1965)年9月、各界の代表者・有識者による「開道百年記念事業協議会」が知事を長として組織され、昭和41(1966)年3月に「北海道百年記念事業実施方針」ならびに「北海道百年記念事業準備計画」が策定された。
このなかで記念塔は、野幌自然公園、北海道開拓記念館とともに、開道百年事業のメイン事業に位置付けられた。
当初、事務局の原案は開拓功労者の像を乗せるものだったが、その後の協議会の議論によって、塔は特定の人物に限定するものではなく、「開拓のすべての先人に感謝と慰霊の誠を捧げるとともに将来に向かって道民の新たな決意をこめた記念塔」とすることとなった。さらに「建設にあたっては広く道民の賛成を求めることが望ましい」との意見が出された。[1]
なかでも戦後すぐに道の拓植計画課長を務めた橋本東三氏は「博物館のような過去を振り返る資料館よりも、今後、いよいよ飛躍して止むことを知らぬ北海道の前途を象徴するような、中空に高く聳える塔を高く建てるべきだ」と熱心に主張したという。[2]
なお、記念塔から外されることになった開拓功労者の像は、この年の8月に民間による「北海道開拓功労者顕彰像建立期成会設立準備会」がつくられ、黒田清隆・ホーレス・ケプロン像が札幌市大通公園に、岩村通俊像が円山公園に、永山武四郎像が旭川市につくられることになった。
さて「北海道百年記念事業実施方針」のなかで「記念塔」は次のように位置付けられている。
北海道開発の先人に対して感謝と慰霊の誠を捧げるとともに、将来に向かっての逞しい北海道の建設を近く道民の総意をこめた記念塔を建設する。[3]
ここには、当時北海道知事として記念事業を協力に進めた町村金五の想いが強く反映されている。下記は「北海道開拓記念館」の10周記念誌に寄せた町村金五知事(当時は参議院議員)の寄稿の一節である。
さらにこの両施設の場所については、私は特に心を砕いた。この事業が決定すると、道内の各地から適地を提供したいとの申し出があったが、結局、私は、東南は野幌の原生林に隣接し、西北に広い石狩平野を一望の中に臨むことができる現在地が最適の場所だと考え、野幌森林公園に決定した。
北海道は、開拓の鍬が入れられる以前は、全体が千古斧鉞を知らぬ原生林に覆われていたことを思い起こし、後方の天然林は過去を偲び、前方の平野は将来の発展に思いを馳せるという念願をこめての選定であった。[4]
すなわち、北海道開拓記念館と北海道百年記念塔、一つは過去を回顧し、開拓の苦労を偲ぶ施設として、一つは北海道の未来を象徴するモニュメントとして、野幌森林公園とあわせて一体不可分のものとして構想されたのである。
【引用参照出典】
[1]『北海道百年記念事業記録』1969・北海道百年記念施設建設事務所・50p
[2]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・177p
[3]『北海道百年記念事業記録 資料編』1969・北海道百年記念施設建設事務所・2p
[4]『北海道開拓記念館10年のあゆみ』1981・北海道開拓記念館・178p
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